【インタビュー】故郷で働きたいと思いUターン

【インタビュー】故郷で働きたいと思いUターン

山元町で生まれ育った。仙台の大学に通っているときに東日本大震災に遭遇。一時東京で働いていたが、故郷の山元町で働きたいと思いUターン。母親が地域活性に深く関わっており、その手伝いをしつつ、自身の活動の幅を広げてきた。今では東京での接客業の経験を活かしつつ、塾の講師としても働く。山元町や宮城県の情報発信を行いながら、学生時代から続けるバスケなども通して地域と関わる。生まれ育った町への想いや、自身の今後の展望等伺った。(2017.2.17 聞き手 橋口博幸)

死ぬ思いで働いていた

生まれ育ち山元町です。高校から仙台に通い、大学は東北学院大学法学部に進学しました。大学では勉強をあまりせず、結婚式場でウェイターのアルバイトばかりしていましたね。高校まで対人関係があまり得意ではなかったんですけど接客が好きになり、(アルバイトに)夢中になっていきました。(アルバイトの)リーダーまで昇格し、すごく楽しかったですね。それで就職も外食産業を選び、東京に行くことにしました。

勤務先が次々と変わり、働き始めて2年くらいで店長になりました。最初が赤坂見附で、秋葉原、水道橋って感じでぐるぐる回って、それから神奈川の店舗を横浜、横須賀、溝の口なんかの店長をしていました。でも次第に会社の業績も落ちてきている時期で、閉店ラッシュになったんです。それで自分が店長をしている店を閉めたことを機会に会社を辞めて、こっち(山元町)に戻ってくることにしたんです。それが一昨年(2015年)の9月でした。

僕が帰ってきた一番のきっかけは母親のアドバイスでした。最初に僕が店長を任された店が横須賀だったんですけど、当時人手が足りなくて毎日休みもなく、まさに死ぬ思いで働いていました。正常に思考できない状況でした。たまたま母親が(会いに)来てくれて、そのとき僕は死にそうな顔をしていたらしくて。そのとき僕はひたすらクレーム対応をしていたんです。クレームに対する書類作成などいくらやっても終わらなくて、でもまた営業開始時間が来ちゃって、またお客様に怒られて、っていう悪循環だったんですね。

社畜っていうのは当時の自分のような状況を言うんでしょうけど、「自分が力がないからそう(いう状況に)なっているんだ」って思っちゃうんですよね。鬱の初期症状と気付いた母親が、「仕事にもいろいろあるし、(山元町に)帰っておいで」って言ったことがきっかけで帰ってきたんですね。それが会社を辞めて帰る1年前。なかなかすぐには辞められなくて。ちょうど閉店したんで良いきっかけだと思って帰ってきました。

母親の存在

マザコンというわけではないですけど、やはり地域でNPO活動をしている母親の存在は大きいなと思いますね。母は主に障害者や心のケアの必要な方の支援活動をしていて、山元町で大きなネットワークを持っているので、いろんな情報が母から入ってきます(笑)。帰って1ヶ月間は母の仕事を手伝っていたんですけど、同じ職場は絶対嫌だと思って辞めました(笑)。

戻ってから1ヶ月後に塾の講師として働くことにしました。角田市にある塾で、主に中学生が対象です。(塾で教える以外に)中学校に緊急スクールカウンセラーといって国が震災支援で授業補助をしています。実際の数学などの授業に補助として入っています。

震災当時小学生だった子どもたちは、学校に行くどころじゃなかったんですね。家をなくしてしまったり、仮設住宅は狭く勉強をする環境がなかったり。その子たちが中学生まで進学してきた今、その影響がすごく大きいんです。宮城県は仙台を中心に偏差値が高い傾向があって、山元町は偏差値の低い場所だったんですが、さらにひどい、という状況があります。学校の先生たちだけでは対応できないところまできているので、塾から講師を派遣しようということになったんです。それは僕が山元町に帰ってくる1年前くらいから始まっていました。

授業だけでなく、仮設住宅には集会所というのがあったんですが、そこで週2回授業をしたりもしていました。今は集会所が使えない状態になったので、地元の公民館などで週2回の授業を開いています。学校では授業の補助で、放課後に勉強会を開くなどの活動をしています。

塾での仕事は拘束時間は長いんですけど、比較的に自由時間があるので、その間にいろいろ他のこともできたり自由がきくんです。自分の勉強とかバスケ(バスケットボール)をしたり。遊ぶといったら僕にとってはバスケ。バスケは地元のクラブチームでやっています。試合も結構多いです。最近一番成績が良かったのは宮城県のクラブチームでベスト4でした。

バスケの様子:提供 田口雄

これはたまたまですけど、去年の5月にNHKの「君に見せたい東北がある」という町の若者を紹介する映像に出演させてもらったことがあります。町にNHKから取材の依頼があって関わることになりました。すごく恥ずかしいんですけど一時期、東京の山手線なんかで流れていたみたいです。若者はあまり方言はなさないのに、方言で話す演出があったりして大変でしたけど頑張りました(笑)。

塾が土日休みなので、ここ(「美晴」)でアルバイトさせてもらっています。やっぱり外食の仕事をしたいって思うんですよね。そういう血が騒ぐというか(笑)。このお店も母の知り合いだったので紹介してもらって働かせてもらうことになりました。

塾の様子:提供 田口雄

地元に貢献したい

東京を離れる際に東京での就職活動はせず、「何かしら地元に貢献したいな」という想いがありました。そんな中、被災した子どもたちの学習支援をしているNPOの塾を母親から紹介してもらったんです。(教育に関して)素人で何も分からなかったんですけど、「自分で勉強をしながら教えられたら良いな」と思い入らせてもらうことにしました。
地元に貢献したいという想いは、自分が生まれ育った町なので、小さい頃からお世話になった人たちがいるということから来ていると思います。ずっとやってきたバスケにしても、他にも小学校の先生に太鼓を教えてもらったりとか、地元に恩があるなという想いが強いですね。

仙台に出ていてもそういう想いはあったんですが、大学生の頃はすぐに地元に帰って何かするというよりは、一度東京に出てみたいなと思っていました。東京で仕事で3年半仕事をさせてもらい、いろいろと経験できて良かったなと思います。でもやっぱり東京にいたら地元に戻りたいなと思いましたね(笑)。

小学校の頃に「こどもエコクラブ」っていって、サークルみたいな感じで町の歴史や自然についておじいちゃんたちに聞いて回ったり縄細工をしたりする活動をしていたことがあります。それは学校とは関係なく、町の事業か、当時の環境省の事業だったのか……。今思えばいい活動をしていたなと思います。

それが自分にとってどう影響をもっているかは分かりません。むしろそういう活動をする環境が自分にとって普通だった。例えば地元に自然にあるのことは普通でした。でもそれが東京に行って「普通じゃないんだな」っていうことに気づいて、「良い環境だったんだな」って思いましたね。

その状況が「辛いな」

震災時は大学3年の終わりでちょうど就活をしていた時期でしたので、仙台で被災しました。僕の実家は山沿いだったので津波とか来ずに大丈夫だったんですけど、ライフラインが復活するまで大変だったみたいです。僕は被災した仙台から出られずにいました。JRも動いてなかったので、親に迎えに来てもらうまで友達の家にいさせてもらいました。仙台駅周辺はけっこうすぐにライフラインが復旧したので、自分は結構恵まれた環境にいたと思います。

最初に山元町に戻ったときは衝撃でした。テレビとかで大変なんだろうという想像はしていましたが、なんとか母親と電話がつながって話を聞くと、母の職場の方にも犠牲になった方がいらっしゃって、(母も)精神的に大変な状況でした。だから早く(山元町に)帰って何かしたいけれど何もできない、という状況でした。原発の問題もあったので親は「帰ってくるな」、という意見でしたし。みんな被災しているけど、その度合いがそれぞれ違うんですよね。自分よりひどい状況の人がもっといっぱいいるから、「辛い」っていうのは言えなかったんですけど、その状況が「辛いな」と思っていましたね。

山元町に戻ってからは2~3ヶ月くらいはボランティアをしていました。大学が始まるまでやっていたと思います。支援物資が全国から集まってきていたんで、それを一度体育館に保管してそれを仕分けるという作業を自衛隊の人と一緒にやっていました。でも、できることと言えばそれくらいでしたね。

自由がきく

僕が今一番思っているのは、塾の新しい拠点が(山元町)山下にも欲しいなと思っているんです。それは塾長も前から言っていることなんですけど。中学校に教えに行っていると、子どもたちの中にはうちの塾に通いたいという子たちもいて、中には角田まで来てくれる子もいるんです。でもやっぱり山下にも欲しいという声もあるので、つくれたら良いなと思っています。

うちの塾って非営利組織、NPOなので蓄えがないんです。それで中々場所を探すのが難しい。普通の塾とは違って、経営方針が地域貢献なんですね。授業の指導方針とかも一切ないんですよ。坂本さんという、今50歳代の方が塾長なんですけど、20年くらい前から塾をやっている方です。震災前から角田を拠点に学習塾をやっていたんですが震災後に、「経営のかたちを変えて復興支援をしながら活動をしていくような団体にしたい」ということで活動していたところに僕が後から入らせてもらいました。

僕にとって山元町が居心地が良いのは、昔からのつながりがあって「人」が良いんだと思いますね。お世話になった人がいて、その人とのつながりがあってっていう環境が僕には一番心地良い。地域の人にすごくお世話になったなという気持ちがあるので、それを今度は自分が次の世代にしていけたら良いのかなと思います。自分が小学生の時は何不自由なく生活していて、今の小学生や中学生は震災があったせいで同じようには過ごせていないんですよね。それに対して支援したいなっていう気持ちがあるので、塾って言うのが一番直接的に支援できるのかなって思っています。

震災のトラウマって表には出ないけれども抱えているっていう子どもは多いと思うんです。震災のときに中学生くらい以上だったりするとある程度自分で消化もできたりするでしょうけど、当時幼かった子って、何も自分で消化できないまま成長していると思うんです。塾長も言っているんですが、そこで少しずつ相手に合わせて支援の仕方は変えていかなきゃいけないと思うんです。

今の子たちは顔には出さないけれども当時の体験とかがフラッシュバックがあったりして、地震があったりすると怖いとか、そういうのもあったりします。それぞれへの対応ってほんとうに難しいんですよね。

僕にとって山元町の復興で大事なことがJRの復旧じゃないかなと思っていました。それで最近駅も新しくなったので、だいたい復興してきたんじゃないかと思います。でも子どもたちの学力とかいろんな側面でまだまだ支援し続けないと、ひどい状況になると思うんです。やっぱり勉強していないと選択肢が狭まると思うんです。進学にしても就職にしても「選択肢を広げてあげたい」というのが僕が思うことですね。

*追記(2017.7.9 記)
5月から山下拠点の塾もオープンし、徐々に生徒数も増えてきているとのこと。キッチンが併設されており、「塾飯」という料理を作って生徒に提供したりもしている。

 

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