【インタビュー】伊藤 若奈 アメリカ帰りのパーソナリティ

【インタビュー】伊藤 若奈 アメリカ帰りのパーソナリティ

生まれも育ちも山元町。アメリカ留学からの一時帰省中に東日本大震災に遭遇。以降、臨時災害FM「りんごラジオ」でパーソナリティーを務める。強い思いで実現したアメリカ留学。歴史や心理学を学び、刺激に満ちた毎日を過ごす。帰郷して「偶然」遭遇した東日本大震災。生まれた町と向き合い、被災状況や生活情報を発信し続ける日々へ。何を思い、考えたのか。そしてこれからの展望等を伺った。(2017.2.15 聞き手 橋口博幸)

昔から「外」に興味があった

1980年の1月14日生まれ、生まれ育ち山元町の37歳です。高校からは名取高校っていう岩沼にある高校に行っていました。小さい頃から海外に住んでみたいと思っていたので、高校を卒業してから、自活しながら全部自分でお金を貯めて、23歳の時にアメリカに留学したんです。

もともと歴史の授業とか地理とか社会科の授業が好きだったんです。昔から「外」に興味があったというか。この小さな田舎町に生まれ育って、外には「仙台という町があるんだ」「東京っていうところがあるんだな」と思ってみたり。その興味の延長線上で地理とか歴史が好きだったんです。違う土地に違う人種の人が住んでいるんだとか、そういった文化にひかれました。そして歴史の中でも考古学とか発掘とかが好きで、そういう視点で世界を見てみたいなと思っていました。

海外に出るまでに東京に出たりしたこともあったり、紆余曲折はあります。若いうちって自分の道を模索するじゃないですか。私もそれと一緒で、いろいろな経験をする中で「やっぱり東京じゃないなあ」と思ったりしました。中学校の頃からずっと「海外に行ってみたい」という思いがあったので、それで(海外での生活に)飛び込んでみたんですよね。

ニューヨークを選んだのはHIP HOPとかR&Bといった音楽がずっと好きだったから、とかいろんな理由があります。最初フランスに行きたかったんですけれども、フランス語よりも英語のほうが需要があると思ってアメリカにしました。20歳ぐらいからお金を貯めはじめて、ほんとうは2001年に行こうとしたんですよ。お金も貯まってきていたので行こうとしていたら、9.11があって。それで2003年にずらして行くことにしたんです。

survive

ニューヨークってお金かかるんですよ。先に語学学校に通ったんですけれども、それだけでも月10万円位は必要。そうすると貯金があったとしてもすぐになくなっちゃう。それにレント代(部屋代)とか、食費とか必要ですし。ニューヨークに渡った最初の頃って貧乏だったので、1日で1ドルのピザを2枚で乗り切るとか、それくらいしないと暮らしていけなかったですね。

語学学校に3,4年通ってからニューヨークの大学(2年制のコミュニティーカレッジ)に入りました。最初は経済学を勉強したんですけれど、自分に経済が向いていない気がして、メンタルヘルスケアっていう心理学を勉強しました。もともと歴史とも重なりの多い心理学とか社会学とか好きなんですよ。アメリカの大学なので入るのは簡単なんですけれど、出るのが難しいんです。私は、そこを中退です。かっこいい言い方をすれば休学なんですけれど、「中退」でいいかなと思っています。

1番最初に住んだ場所が、ものすごいゲットー(スラム街のよう)な場所でした。毎日銃声がバンバン聞こえるようなところに日本人の友達とシェアして住んでいました。すごく危なかったんですけど、それでアメリカのギャングの抗争に巻き込まれたりしたこともあります。おもしろおかしく楽しく過ごしていましたけれどね。
1年くらい最初の場所に住んでいたけれど、そのゲットーさが嫌で、すごく嫌だった。たまたま日本で知っていた友達がそこに住んでいたから、そこに住んだんですけど。そこからニューヨークの、日本でいう原宿みたいなところに引っ越しました。
何度か危ない目にもあいましたよ。例えばニューヨークって「Fire escape」っていう非常階段がアパートメントに付いているんです。あそこから夏の暑い日に手がにゅーっと伸びてきて、足捕まれそうになったり。心霊じゃないですよ、生身の人間の手です。朝強盗に入られたこともあるし、サバイブ(事故などから生き残った経験)のことなんていろいろありますよね。一番怖かったのは、タクシーの運転手と喧嘩して夜中に超ゲットーなところで降ろされたっていう状況もありました。近くを通っている車を必死で「ヘーイ!」って言って捕まえて、「ここどこ?送ってって!」みたいな感じで泣き落とししたりとか。いろいろありました(笑)。

23歳だった2003年の4月から31歳くらいの2011年の1月まで7年いましたから、あんまり(感覚が)日本人じゃないんですよ(笑)。大学も3年以上行ってて、「もう31歳になっちゃうな。ここで将来を考え直してみるのもいいのかな」と思っていったん帰国したんです。(大学を)卒業しなくても英語は話せるし、何かしら仕事はあるかという想いで(日本に)帰ってきたんです。だけど「(日本で)ダメそうだったらすぐニューヨークに帰ってこられるし」って思っていました。

2011年1月に帰国して、3月まではメンタルヘルスケアとか心理学系の勉強をしていました。そこでは「なんで日本には鬱病患者が多いのかな」とか「なんで自殺する人が多いのかな」っていうのを中心に勉強していました。統計的にはアメリカに比べて8倍くらい(患者が)多いっていう数字もあるので、日本に心理学とかカウンセリングを広めていきたいと思っていました。アメリカだと占いに通う感じでカウンセリングに通うんです。それで医療事務の学校に1ヶ月半くらい通いました。それで精神科系の医療事務とかが良いかな、と思ったんですね。でも(自分には)全然向いてないんですけど(笑)。

東日本大震災

あと1つか2つの授業が残っていたか残っていなかったくらいの時期で地震(2011年3月11日 東日本大震災)が来たんです。(医療事務の学校は)確か卒業扱いになりました。震災のあと「りんごラジオ」が立ち上がったのが3月21日。その3日後、24日くらいから私はりんごラジオに入りました。りんごラジオで「英語のボランティア」を募集していたんです。

震災当時にあって今はもう閉局しちゃった「エフエムわいわい」というのが阪神淡路大震災当時、3カ国語、4カ国語放送というのをやっていたんです。それをうち(りんごラジオ)のボス(高橋 厚さん)がやろうということで、うちでも3カ国語、4カ国語放送っていうのを震災の復旧復興情報を中心にやっていたんです。そのボランティアで英語担当として混ぜていただいたんです。私のおうちは無事だったんですけれど、友達や大切な人が何人も地元で亡くなっていました。それでなにかできることはないかなと思って、英語のボランティア以外にもりんごラジオでのボランティア活動をしようと思って、それから半年くらいボランティア活動を続けていました。

日本に帰ってすぐ震災が来ましたからね、きっと運命だったんでしょうね。(日本に)帰ってきていて良かったですよ。多分、海外にいて帰れないで地団駄踏んでいるよりも、こっちにいて次の日から動けた方が良かった。沿岸部の知り合いが多くて、みんなのことが心配だったし。(帰っていたので震災の)次の日から動けたから。例えば服を寄付したりとか、2日目からちょっとでもみなさんの役に立てれば、という想いがありました。

震災の次の日とかすごかったから……。ほんとうに。ここ(役場)とかにも人がごちゃごちゃいたし、保健センターとかで、私もまったく知らないおじいさんの足を「みんなでさすってあげよう」って言ってさすったり。「誰ですか?」とかいうよりも、「何かしら助けなきゃ」って。ほんとうに命の灯が消えかかっているおじいちゃんがいたりとか、いろんな人がいて……。(冬の寒い中)青いビニール1枚でごろんと寝ているような、ひどい状態でした。私は衣服を寄付したりしたんですけど、例えばおじいちゃんが私の寄付した服を着ていることとかあって、それを見たら「良かったな」って。「私の伊藤若菜って書いてあるジャージをおじいちゃん着とるやん」とか(笑)。着るものがちょっとでもあって良かったなあって思いましたね。

りんごラジオ

りんごラジオは東日本大震災の10日後に立ち上がったラジオ局で、最初は復旧復興情報、あとはライフラインに関する情報などを放送していました。他には芸能人の方が来られたときのインタビューなんかも放送しながら今に至ります。時と共に放送内容も変わってきました。もちろん復旧復興情報と山元町の情報が軸なんですけれども、それ以外にもイベント情報などのエンターテイメント的な情報だったりっていうのも発信するようにしています。最初の内は被災者情報ですとか、山元町の情報で100%固めだったんですけど、今は情報とエンターテイメントやお知らせといったものが大体、半分半分くらいになってきています。

ずっと「町民に寄り添った放送」というのを続けてきて、何に関しても「山元町のかたたちが聞いてくださる」っていうのを一番に考えて放送しているラジオ局です。企画を考えるときも「町民の皆さんがどういった反応をするかな」っていうふうに考えて企画します。りんごラジオに入って途中3ヶ月抜けたり、1年抜けたりっていう時期はあるんですけれど、結局、その間もずっとボランティアで関わっているから、6年間働いてきたと言って良いと思います。

町内ではイチゴ農家の方とか結構聞いてくださっていますね。私が取材で町内を回っているときに、ふと(ラジオが)ついていたりすると嬉しい。そういうときはつい駆け寄って「私、ラジオで働いているの~!」って話しかけたりします(笑)。そこから仲良くなって次の出演につながったりとか。うちって(パーソナリティーの)名前を言わないので誰がその放送を担当しているか分かんないんですよね。それは局長の意向で「臨時災害FM放送局だから」っていうのがあります。
局長の高橋 厚さんは元々TBCっていう東北放送のアナウンサーだった人です。引退してから田舎暮らしがしたくて山元町に引っ越してこられた方。局長カッコいいですよ。りんごラジオを最初に立ち上げてから200日間休みなしでラジオ放送をやってらっしゃったんです。それから少しずつ休みをとるようになったんですけど、2年前に脳出血で倒れて今リハビリを頑張っていて、少しずつまたマイクに向かっているんです。今でも放送に対する情熱を失っていない人。魂のある、本物のジャーナリストだと思います。

動かされている

この山元町で亡くなった人たちが636人いるんですけれど、その人たちの想いっていうのを考えると動かずにはいられない。それはすごくあります。一番のモチベーションになっているのかなと思います。流れに身を任せるじゃないですけど、動かされている感じがあると思いますね。

もともとラジオも本職ではなく、震災からはじめたこと。そうしてくださったのも、うちのボスだったり周りのみなさんに勉強させていただいたって思っています。そして今もいろんな方たちに声をかけていただいたり、みんなのおかげで今の私があるんだなと思います。なんでしょうね、「やんなきゃいけない」という気持ちで動かされているのかなと思うんですけど。

何回も途中で辞めたくなりました。初めてのことで、しかも英語しか話せないような状況でしたから、1からしゃべることを覚えてきたので、今みたいにしゃべられるようになるのは大変だったですよ。でもそれでも「伝えるべきことを伝えていきたい」という気持ちがあったから続けてこられたんだと思います。辞めたいと思ったこともあったから1年とか離れたこともありましたけど、結局は「自分の気持ち」ですよね。東日本大震災とか、山元町に対する想いで動いているのかなという風に思いますね。伝えなきゃいけないという使命ですかね。

(メンタルヘルスを勉強していたことで)人の話や意見を聞く姿勢っていうのに役立っているなと思います。あとはやっぱりどうしたら被災された方の心を癒やせるかなとかインタビュー中に考えたりとかしますよ。お話聞きながら泣いちゃったり、感情が溢れることはあります。陰で隠れて泣いたりね。でも私は全然大丈夫。何を伝えるべきかっていうことだけじゃないかな。やっぱり人によっては続けていけないですよね。(続けるうちに)苦しくなっちゃう方もいると思います。私は楽天的だったから続けてこられたのかもしれない。

大きな夢

私は3月いっぱいでりんごラジオは辞めるんです。それ以降ラジオが存続するかは私もわからないんですけど(*)、私の中では「臨時災害FM」っていうくくりでやっているので、例えばコミュニティFMとかに移行するのであれば区切りをつけようと思っているんです。その違いっていうのは臨時災害FMっていうのは東日本大震災があって立ち上がった災害FM。復旧復興情報も、もうそろそろコミュニティFMにするべきなんじゃないかなと私の中では思うので、一区切りつけるという意味でも私は3月いっぱいで(辞めよう)って思っているんです。

明日仙台のラジオ局(楽天FM)の面接なんです。そういうところでキャリアを積んで、次のステップに行けると思うんですよね。山元町のラジオももちろん大事なんだけど、それ以外にも経験していると自分の夢にも良いと思うんですよね。

辞めたあとは、大きな夢がけっこう色々ありますよ。ニューヨークって日本語のラジオ局ってないんですよ。それを立ち上げたいなという漠然とした夢はあります。あの震災当時の経験から、もしニューヨークで震災が起こったときに、日本語でラジオを聞けたらいいと思うんです。安心感がありますよね。将来的にはそういうこともやっていきたいっていう夢はあります。

それともう一つやりたいのは、震災関連に携わっていきたい。今日の河北新報に載っていて感銘を受けた記事があるんですけど、74歳のおじいさんが被災地沿岸を回って1,000人を目標にインタビューをされていて、現在350人なんですって。そういうのすごいなと思うの。ほんとうに尊敬する。しかも山元町から(インタビューを)はじめたんだって。1,000人の教訓を残していくってすごいですよね。一人でやっているんだって。きっとこの人も使命感でやっていると思うんですよね。何かしら震災や防災に携わる仕事をしたいと思っています。

二つの面での魅力

山元町の魅力って、みなさんおっしゃると思うんですけど、「人の良さ」だと思います。それが一番の自慢じゃないかな。あとは仙台からも近いですし、仙台より温暖だし、どこにでも行きやすいというのはありますね。空港も近いし。あとは食べ物の美味しさ。野菜や果物が美味しいっていうのは幸せなことじゃないですか。人間の営みとしてやっていけるまち。田舎ってどこもそうかもしれないですけれど、そういうのができるまち。未だに物々交換も残っていると思いますし、良い意味で田舎体験もできる。それにプラスして被災地の復旧復興から立ち上がって来た面も見ていただきたい。それが混ざり合ったまち。良い意味での田舎と被災地としての復旧復興で立ち上がってきたっていう二つの面での魅力があるかなと思っています。

私の中ではハード面での復興は進んでいると思いますけど、心の復興は誰しもが一概に言えないんです。だから被災者さんにとっては、ずっと一生ついて回るものだと思うんです。家族を亡くされたりですとか、おうちをなくされた方にとっては。だから復興っていうのはハード面では山元町の復興も一段落しつつあるんですけれども、心は一生かかって復興していくものかなと思います。これからは心の豊かさですとか、そういった面でちからになれるところがあったら良いかなと思っています。もちろん被災者の心に寄り添った放送っていうのを、ディレクターであったりアナウンサーでいる限りはずっとやっていきたいなと思っています。

*追記
「りんごラジオ」は2017年3月で閉局した。また、伊藤若菜さんは2017年4月より、プロ野球東北楽天が運営する仙台市宮城野区のコミュニティーFM局でパーソナリティーとして活躍中。

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